寒天と伏見の関係。発祥の伝承、作り方、産地が移った理由

海藻から作る寒天は、海から離れた伏見を発祥の地とする食品です。寒天作りに必要なのは海藻が採れる海だけではなく、ところてんを凍らせて乾かす冬の気候です。江戸時代の文献には伏見での製造が記され、のちに寒さと乾燥に適した地域へ生産が広がりました。
伏見には発見者をめぐる伝承があり、18世紀の文献には製造と商いの記録が残ります。寒天の生産地が移ったあとも、寒天を使う練羊羹は伏見の菓子として作られています。
寒天は、ところてんから水分を抜いて作る
寒天の主な原料は、テングサやオゴノリなどの紅藻類です。海藻を煮出して固めたところてんを、伝統的な製法では冬の屋外で凍らせます。それが溶ける際に水分が抜け、さらに乾燥すると、保存や運搬ができる寒天になります。凍結はそのまま食べるためではなく、水を除いて乾燥させる工程です。[11・12]
使うときは寒天を煮溶かし、再び冷やして固めます。加熱してほどけた寒天の成分が、冷えると網目状に組み合わさり、水を抱え込むためです。乾かした材料を保存しておき、必要な量を煮溶かして使えるため、寒天は菓子作りにも利用できます。[12]
美濃屋太郎左衛門が発見したという話
伊那食品工業が紹介する伝承では、1658年頃の冬、美濃屋の主人・太郎左衛門が、ところてんを戸外に置き忘れたとされます。夜に凍り、昼に溶けるうちに水分が抜け、干物のようになりました。それを煮溶かして冷やすと再び固まり、寒天を発見したと伝えられています。[11]
伏見には、薩摩の島津公をもてなした食事の残りがきっかけだったという話も伝わっています。また、「寒天」の名は黄檗宗の僧・隠元隆琦が付けたとされ、寒い時期にさらすところてんという製法に結びつけて説明されます。発見の場面や命名には異伝があり、ひと続きの確定した史実としてまとめることはできません。[11・13]
文献は、伏見に製造と商いの拠点があったことを伝える
京都市の観光案内は、18世紀初頭の百科事典『和漢三才図会』の「石花菜(ところてん)」の項に、伏見で寒天を製造する記述があると紹介しています。18世紀後半の地誌『伏見鑑』にも、伏見で作り始めた産物として寒天が登場し、御駕籠町に寒天仲間が置かれていたことが記されています。[13]
これらの文献が伝えるのは、18世紀には伏見の産物として認識され、同業者の組織もあったという製造と商業の実態です。京都市はさらに、近代の土地台帳に御駕籠町の美濃屋が確認できるとしています。ただし、近代に同名の家が存在したことだけで、17世紀の伝承の細部まで証明されるわけではありません。[13]
御駕籠町は、南浜町の酒蔵街とは別に、大手筋より北側の旧市街にあります。寒天の歴史も含めて歩く場合は、商店街から中書島へ南下する行程だけでは訪ねられません。発祥の碑と練羊羹を買う店も別の場所です。[13・34]
寒さだけでなく、原料を運ぶ条件も産地を変えた
海藻は別の土地から運べるため、原料の採取地と寒天の製造地は一致しません。伏見で始まったとされる製造は、のちに大阪北部から丹波、信州方面へと広がりました。京都市の案内は、より冬の冷え込みが厳しい地域へ産地が移り、現在は伏見で生産されていないと説明しています。[13]
伊那食品工業の歴史紹介では、1840年頃、諏訪の行商人・小林粂左衛門が丹波で製法を学び、信州へ持ち帰りました。信州の乾燥した冬は凍結と乾燥に適し、農家の副業として製造が広がったとされます。さらに1905年の中央本線開通で、原料の海藻と製品を運ぶ条件が改善し、生産の拡大を後押ししました。産地の発展には、冬の気候と輸送の両方が関わっています。[11]
伏見には、寒天を使う練羊羹と発祥の碑が残る
寒天は餡を固める練羊羹にも使われます。京都市の解説によると、大正時代にかけて練羊羹が伏見名物となりました。現在も下油掛町の伏見駿河屋本店が煉羊羹を扱っています。寒天の生産地が移ったあとも、伏見では寒天を使う菓子の製造と販売が続いています。[13・27]
2020年12月27日には、御駕籠町に隣接する京都市立伏見中学校に「寒天発祥之地」の碑が建てられました。学校敷地内のため、自由に立ち入れる観光施設とは異なります。見学の可否は事前の確認が必要です。[13]
練羊羹と酒粕の菓子では、材料が伏見と関わる経緯が違います。その違いと現在買える品は伏見の名産・お土産で紹介しています。伏見の港が人や荷を中継した仕組みは江戸の港町で読めます。
参考資料
アイキャッチ図版:パレード伏見洋菓子店。


