江戸時代の伏見。港の商い、奉行の支配、中書島遊郭の成立

伏見城が1623年に廃されても、京都と大坂の間を移動する人や荷物はなくなりませんでした。高瀬川と淀川方面の船運、京都へ続く街道が交わる伏見には、船客を泊める宿、荷を扱う商い、交通と町を管理する奉行所が残りました。城下町から港湾商業都市への変化は、城の跡だけを見ていても分かりません。[2・48]
中書島の遊郭も、この港町の歴史に含まれます。元禄期、伏見港を行き来する客を見込んで、橋の架設と遊郭の移転が進められました。港の繁栄とともに、そこに暮らし働いた人々の歴史もたどります。[44・46]
京都と大坂を結ぶ荷物と旅人が、伏見で乗り継いだ
京都側の水路は高瀬川です。角倉了以らが開いた運河は京都の市街地から南へ延び、伏見を経て淀川の船運とつながりました。高瀬川を使う船と、大坂へ向かう淀川の船が行き交う伏見は、大小の船が集まる中継地点でした。[2]
高瀬舟は、浅い水路を通るため底が平らな小型の船で、人が曳いて進めました。京都市の文化遺産調査は、反物なども運ばれたと記しています。また、伏見へ着いた荷は水路だけでなく、牛車で京都へ送られました。竹田街道には車輪が路面へ食い込まないよう石を敷いた車道が設けられていました。水運と陸運が組み合わさって、京都への輸送を担っていたのです。[46]
京橋付近には三十石船などが集まりました。西国大名の参勤交代の発着にも使われ、本陣や脇本陣が置かれています。船が港へ運んできた旅人や荷物を支えるため、町では宿泊、食事、荷物の保管や運搬を担う仕事も営まれました。現在の京橋周辺を港の中心と呼ぶのは、船の係留地だけでなく、こうした宿場と商いが集まったためです。[2・48]

城がなくなった後も、伏見奉行が町と水運を管理した
伏見奉行は、江戸幕府が各地に置いた遠国奉行の一つです。伏見の民政に加え、淀川の水運を担当しました。京都市の史跡案内は、伏見奉行に大名が登用されたことを、地域の重要性を示す特徴として紹介しています。[48]
港町を動かしていたのは、商人の自由な売買だけではありません。幕府が認めた船の運航や、町の支配、交通をめぐる規則がありました。水運を管理する奉行所が置かれたことからも、伏見が京都と大坂の間を押さえる行政の拠点だったことが分かります。奉行所跡は現在の西奉行町にあり、江戸期の建物がそのまま残る場所ではありません。[2・48]
城の廃止とほぼ同じ時期には、伏見から南西の淀に新たな城が築かれました。伏見と淀はともに交通に関わる土地ですが、廃城後の伏見の港町と、淀藩の城下町は別の都市です。[2]
船賃や奉行の支配への不満を訴えた住民もいた
港が賑わったという説明の裏側には、料金や支配をめぐる住民の争いもあります。下板橋町の玄忠寺には、小林勘次を顕彰する碑があります。京都市の説明によると、元和年間、淀川の船の料金が上がって町民が困窮した際、薪炭商だった勘次は幕府へ直訴しました。輸送費は、船に乗る旅人だけでなく、燃料などを扱う町の商いにも関わる問題でした。[48]
石屋町の勝念寺にある柴屋伊兵衛の碑は、それとは別の、天明年間の出来事を伝えます。伊兵衛らは伏見奉行小堀政方の政治に対して直訴を計画しました。市の案内は、政方が罷免された一方で、伊兵衛は取り調べの間に病死したと説明しています。[48]
これらの碑は、事件の当日に建てられた記録ではありません。市は伊兵衛らについて、明治以降、伏見のために奔走した人々を「義民」として顕彰する動きの中で碑が建てられたとしています。訴えが起こった時代と、その人物を後に記念した時代の両方が、町の史跡に残っています。[48]
中書島遊郭は、港の客を見込んで元禄期に開かれた
中書島は、もとは宇治川の流れに囲まれた島状の土地で、城下町の時代には大名屋敷が置かれました。その後、元禄期に伏見奉行が再開発を進めます。清山陽平・神吉紀世子の研究は、1699年に橋が架けられ、1700年に阿波橋の西側にあった柳町の遊郭が移され、東柳町・西柳町となった経過を整理しています。[44]
北の旧市街と中書島を結ぶ蓬莱橋、西側と結ぶ橋の整備は、人が訪れるための通路を造る事業でした。京都市の文化遺産調査は、伏見港の往来客を見込んだ遊郭開発だったと説明しています。遊郭は、売春を公認・管理する区域として設けられた場所です。船客や船頭を迎えた商業を述べる際にも、そこで女性が性を売る仕事に従事した歴史が含まれます。[44・46]
この旧遊郭の中心は東柳町と西柳町です。現在「中書島」と呼ばれる駅周辺や、南側の南新地をすべて同じ江戸期の遊郭とみなすことはできません。南新地が市街化するのは、鉄道駅ができた後の近代です。区域と時代を分けた変化は近代以降の伏見で詳しく扱います。[44・45]

長建寺の信仰と、中書島の舟を使う祭礼
東柳町の長建寺は、中書島の開発と関係して建立されました。京都市の文化遺産調査によると、1699年、当時深草大亀谷にあった即成院から多聞院を分離して建てられ、弁財天を本尊としています。現在知られる赤い竜宮門は、酒蔵街から中書島へ歩く際にも場所の目印になります。[46・48]
長建寺には弁天囃子の伝承があります。同調査は、江戸時代には遊郭の女性たちが囃子を奏でる船の渡御が行われ、川の上で火をともす祭礼だったと紹介しています。今日の弁天囃子は復興されたものと説明されており、江戸期から同じ形で絶えず続いた行事とは区別されます。[46]
中書島は営業区域であると同時に、人が暮らし、寺を参り、行事に関わる場所でもありました。ただし祭礼の記録だけから、個々の女性の生活や働く条件を推定することはできません。近代に確認できる居住規制、前借金、課税などは、制度と働いた人々を扱う節で、京都府の規則や研究の範囲を示して説明します。
伏見の遊郭は、中書島だけではなかった
伏見の北側には、橦木町の遊郭もありました。京都市の史跡案内は、伏見夷町の大名屋敷跡に開かれた花街として紹介しています。中書島とは離れた北側の営業地で、伏見には時期や場所の異なる遊郭がありました。[48]
「花街」は芸能の接客を行う芸妓の仕事とも関わる言葉で、「遊郭」と常に同じ意味ではありません。特に近代京都では、同じ区域で芸妓と娼妓が活動する形が制度化されました。時代によって制度や営業の呼び方が変わるため、江戸期の成立と、明治以降の営業・労働条件は分けてたどる必要があります。[47・51]
幕末の事件は、船宿と街道のある町で起こった
寺田屋で起こった二つの事件は、区別しておきたい出来事です。1862年には薩摩藩の急進派を抑えようとする同藩の者との衝突がありました。1866年には坂本龍馬が幕府の捕手に襲われています。寺田屋が政治に関わる人々の滞在先になった背景には、伏見が京都と大坂を往来する船宿の町だったことがあります。[2]
1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍が京橋から上陸して伏見奉行所へ入り、御香宮に陣を置いた新政府軍と戦いました。市街地の多くが焼け、港町も被害を受けます。寺田屋も罹災し、西隣に再建されたため、現在の建物は幕末の二事件の時の建物そのものではありません。[2・33]

その後の伏見では、港の再整備と鉄道の開業が進み、働く場所と住む場所が変わりました。近代以降の伏見では、運河や電車、酒造業、中書島の変化を続けて読み進められます。
参考資料
- 京都市・港湾商業都市の繁栄
- 京都市・伏見区民史跡・名所めぐり
- 清山陽平・神吉紀世子(2021)中書島南新地にみる近代スプロール市街地空間の開発経過に因る特色
- 京都市・京都の文化遺産総合調査報告書 第4章
- 清山陽平・神吉紀世子(2026)中書島の小規模飲み屋群にみるスナックの空間性
- 瀧本哲哉(2020)戦間期における京都花街の経済史的考察
- 松田有紀子(2012)芸妓という労働の再定位
- 京都市・京都遺産「京と大阪をつなぐ港まち 伏見」
- 都名所図会(国文学研究資料館鵜飼文庫・1786年刊本)
- 天保年間 城州伏見町圖(深草アーカイブ024-046B)
- 月岡芳年・下鳥羽伏見合戦之図(1874年12月・LACMA)


