「桃山」の地名はなぜ生まれたのか。伏見城の廃城と桃の植栽

「桃山」は、伏見城が取り壊されたあと、その跡地に桃の木が植えられたことに由来する地名です。京都市の都市史解説によると、城跡はのちに明治天皇陵の造営で姿を変えますが、桃山という名は現在の町名や駅名に残っています。[3]
1623年の廃城後、城跡に桃が植えられた
伏見城は、秀吉による指月での造営、地震後の木幡山への移転、家康による再建を経て、1623年に廃城となりました。城の段階と発掘成果は伏見城と城下町で詳しく説明しています。城の建物や部材は各地へ移され、取り壊された跡の一帯に桃が植えられます。この桃のある丘を表した呼び名が「桃山」です。[3]
大坂の陣で豊臣氏が滅び、京都に二条城と伏見城を維持する必要が薄れたことが廃城の背景です。誰が最初に何本植えたのか、桃畑が正確にどこまで広がっていたのかは、この由来の説明だけでは確定できません。[3]
江戸期の名所案内にも、城跡と桃の結び付きが現れます。1786年刊本の『都名所図会』では、「城山」の項に城跡の説明と桃の花を詠む句が載っています。廃城後の丘を桃のある場所として紹介した、当時の文献の一例です。[66]

城跡、明治天皇陵、現在の天守は別の時代にできた
現在、木幡山の本丸跡周辺には明治天皇陵があります。城、桃の植栽、御陵という順に、同じ丘陵の使われ方が変わってきました。京都市は、城の内堀の一部が紅雪池や治部池として残ると説明しています。丘陵には、御陵となった場所と、城の地形の一部を残す場所があります。[3]
近くに見える「伏見桃山城」の天守は、1964年に遊園地の施設として建てられました。遊園地は2003年に閉園し、天守は残されました。この模擬天守が建つよりずっと前から、一帯には桃山の名が定着していました。[3]
「桃山」は、築城以前からの丘の名ではない
城が築かれる以前、南側の指月には伏見山荘や伏見宮の御所がありました。また、地震後に城が移った場所は木幡山と呼ばれます。「桃山」という呼び名は、こうした築城以前の山荘や城の名そのものではなく、廃城後に桃が植えられた景観に由来します。[3・52・53]
そのため、現在の「桃山」という広い呼び方から、秀吉の最初の城も、家康の城も、模擬天守も同じ場所だと考えると位置が合いません。指月と木幡山を分け、その後の御陵や模擬天守の場所を確認すると、地名に含まれる時代の違いが分かります。[3]
大手筋や大名の名が付く町名とは、由来が違う
伏見には、城が使われていたころに関わる地名もあります。大手筋は大手門へ向かう道で、桃山毛利長門、桃山羽柴長吉などは大名屋敷にちなむ町名です。これらに対して「桃山」は、城がなくなったあとの景観から生まれました。[1・3]
掲載した『伏見の図』にも町名や道、水路が描かれています。ただし原図の制作年は未詳です。城が使われていた時代の地名と、廃城後に生まれた桃山の名が、現在の町名に重なっています。
三つの駅の「桃山」は、同じ駅を指していない

現在の鉄道には、JR桃山駅、京阪伏見桃山駅、近鉄桃山御陵前駅があります。名前は似ていますが、独立した三つの駅です。大手筋や南の酒蔵街へ向かう場合と、東の丘陵にある城跡・御陵へ向かう場合では、駅から歩く方向が変わります。
駅名を選ぶときは路線別のアクセス案内を、城の移転を知りたいときは伏見城と城下町、廃城後の港町を知りたいときは江戸時代の伏見を参照できます。
参考資料
アイキャッチ図版:パレード伏見洋菓子店。


