伏見城と城下町の歴史。秀吉の築城、家康の政治拠点、発掘で分かったこと

伏見城は、一つの天守が同じ場所で代々使われた城ではありません。秀吉が指月に構えた屋敷、それを拡張した城、地震後に木幡山へ移した城、家康が再建した城という段階があります。城の変化とともに、大名屋敷の配置や街の道筋も変わりました。[3・62]
大手筋や大名に由来する町名は、その城下町の歴史を伝えています。一方、現在「伏見桃山城」として見える模擬天守は1964年の建物です。現存する建物、地下から発見された遺構、文献から推定される城の姿を分けてたどります。[3]
1592年の隠居屋敷は、1594年から城へ拡張された
秀吉は1591年に関白の位と京都の聚楽第を甥の秀次に譲り、翌1592年、宇治川に臨む指月の丘で、隠居のための屋敷の造営を始めました。指月には、それ以前に伏見宮の御所が営まれた歴史があります。平安・中世の土地利用は築城以前の伏見で紹介しています。[63]
1593年に秀頼が生まれた後、1594年からは天守や石垣を備える城郭への拡張が進みました。2026年の京都市埋蔵文化財研究所の解説は、1592年からの屋敷と、1594年から本格的な城として整備された段階を分けています。「1592年に築城」とひと言でまとめる場合にも、当初から完成した大城郭があったわけではありません。[61・62]
ところが1596年の大地震で、御殿や門などが倒壊しました。秀吉は北東の木幡山へ城を移して再建し、1598年にその城で亡くなります。現在の明治天皇陵付近は、この木幡山の城の本丸があった場所に当たります。[3・61]
城を造るために、港・堤・町割も整備された
城の建設には大量の資材を運び込む必要がありました。京都市の通史によると、1594年には伏見港が開かれ、宇治川と巨椋池を分ける工事や、太閤堤・槙島堤の築造が進みました。伏見は京都、大坂、奈良、近江を結ぶ位置にあり、水路と陸路を利用できました。[1]
城下の整備は、丘の上に建物を造るだけの事業ではありません。西側の外堀を掘った土を低湿地の埋立てに使い、道路と町家、寺社、武家屋敷を配置しました。全国の大名が伏見に屋敷を構え、それに伴って商工業者も集まりました。城、水路、造成した市街地が、一つの大きな都市整備として造られたのです。[1]
大手筋は城の大手門へ向かう道で、京町通や両替町通は町人の居住地の中心でした。瀬戸物町、塩屋町、納屋町などの名前にも商いの記憶が残ります。現在の三つの商店街は、こうした道筋の上で設備や店を変えながら使われてきた場所です。現在の買い物の区間は大手筋・納屋町・竜馬通りの案内で確認できます。[1・5・40・43]

家康にとっても、伏見は政治を行う重要な拠点だった
1600年、関ヶ原合戦の前哨戦で木幡山の城は焼失しました。家康はその後に再建し、1603年には伏見城で征夷大将軍に就任しています。秀吉の死とともに城の歴史が終わったのではなく、初期の徳川政権も伏見を拠点にしました。[3・60]
1601年には伏見に銀座が置かれました。銀座は現在の商店街の呼び名とは異なり、銀貨の統一に関わる機関です。京都市は、伏見での開設を江戸時代の貨幣政策の基礎になった出来事として紹介しています。全国の大名の屋敷が集まり、朝廷との交渉も行う土地で、貨幣の仕組みも整えられていました。[48・60]
1606年を最後に家康の政治の中心は駿府へ移りますが、伏見城は将軍家の城として残りました。二代将軍秀忠も大名を従えて伏見へ入り、西国大名の国替えや朝廷との交渉を行いました。城下町の大名屋敷を考える際には、秀吉の時代だけでなく、徳川期の配置や人の入れ替わりも関わります。[60]
発掘された石垣は、指月の城と後の屋敷の違いを示す
2021年、JR桃山駅前の発掘調査で、指月の伏見城に属すると考えられる石垣の基礎部分が見つかりました。地面を溝状に掘り、根石を据え、その裏側へ小さな石を詰め、前面の土を突き固めた造りです。上部の石垣は残っておらず、地中の基礎から築き方を調べています。[61]
同じ調査では、後の大名屋敷を区画する石垣も確認されました。二つの石垣は方位が異なり、屋敷側の石垣が古い基礎の一部を壊して築かれていました。この重なりから、同時に造られたものではないことが分かります。地震後に城が木幡山へ移ると、指月側でも土地の使い方と町割が変わったと考えられています。[61]
この発見は、指月城の範囲が従来の推定より北へ広がる可能性も示しました。一方、天守や門などの配置には未解明な点があります。現在の地図に城域を描くときも、発掘で確かめた部分と復元案を同じ確かさでは扱えません。駅前で発掘されたという説明は、遺構が常時公開されているという案内でもありません。[61]
家紋瓦は、大名屋敷を調べる別の手掛かりになる
大名の屋敷は、地名や絵図だけでなく、出土した瓦からも調べられています。2026年の京都市埋蔵文化財研究所の紹介には、前田家の屋敷跡推定地近くで見つかった梅文の金箔瓦、佐竹家の屋敷とされる場所から出た扇文の瓦、桃山町正宗で発見された鳥文・竹文の金箔瓦が載っています。[62]
桃山町正宗の鳥文と竹文の瓦は、伊達家の「竹に雀」の家紋を簡略化した組み合わせと考えられています。瓦の文様、出土した場所、屋敷の配置を記した資料を照らし合わせて、どの家の建物だったかを検討するのです。町名の漢字が人名に似ているという理由だけで、屋敷主を決めているわけではありません。[62]
金箔瓦は天守だけに使われたものではなく、大名屋敷からも出土しています。伏見城の周囲には、各大名が屋根の装飾にも家の印を表す城下町が広がっていました。[62]
1623年の廃城後、丘陵と港町は別の道をたどった
大坂の陣で豊臣氏が滅び、城の軍事的な必要性が薄れると、伏見城の役割も変わります。三代将軍家光が1623年に将軍宣下を受けたのを最後に廃城となり、建物や部材は各地へ移されました。丘陵の跡地に桃が植えられたことが、「桃山」の地名の由来です。[3・60]
しかし、京都と大坂の間で人や荷物を中継する需要は残りました。城のために整えられた港と道は、船客、商人、宿泊客を迎える街を支え続けます。その後の奉行の統治、港の商い、中書島の開発は、江戸時代の伏見と中書島で詳しく説明します。[2]


