伏見城ができる前の歴史。深草の集落、指月の山荘、伏見宮と村人の暮らし

秀吉が伏見に城を築き始めたのは1592年です。それ以前にも、伏見とその周辺には農耕を営む集落、土器を作る人々、貴族の山荘、皇族の御所がありました。丘陵のふもとと川に近い土地は、住まい、生産、京都と奈良の往来に使われていました。
現在の伏見区には、深草、桃山、鳥羽、醍醐など、異なる成り立ちの地域が含まれます。ここでは桃山丘陵の指月と伏見宮を中心に、その北の深草、西の鳥羽との関わりをたどります。現在の駅前商店街や酒蔵街が、そのまま古代から続いていたわけではありません。[52・53・57・58]
深草には、城よりはるかに古い農耕と土器作りの跡がある
伏見桃山の中心街より北にある深草では、稲荷山の西南に位置する深草弥生遺跡から、土器とともに鍬や鋤などの木製農具が出土しています。京都市の通史は、この地域で早くから水稲耕作が行われていたことを紹介しています。出土した農具には堅いカシの木が使われ、土地を耕す仕事と木材の加工技術を知る資料になります。[58]
土も、この地域の生産を支えました。京都市は、『日本書紀』雄略天皇17年条に、朝廷へ土器作りの人を「山背国俯見」から送ったという記述があると紹介しています。これは文献に現れる地名と陶工の記録です。遺跡から発見された農具とは、伝えている事柄も証拠の性質も異なります。[58]
深草から桃山丘陵にかけては、後の時代にも粘土の採取場があり、その土が深草瓦や伏見人形に利用されました。酒造りだけでなく、土地の材料を使う製造業にも伏見の歴史があります。ただし、古代の陶工と後世の職人が同じ系譜で途切れず続いたとまで確認できるわけではありません。[58]
指月の丘には、宇治川に臨む伏見山荘が営まれた
指月は、桃山丘陵の南端で宇治川に臨む場所です。11世紀後半、橘俊綱がここに伏見山荘を営みました。京都市の解説は造営の時期を延久年間、1069〜1074年としています。俊綱は、宇治の平等院を建立した藤原頼通の子で、伏見長者とも呼ばれました。[52]
この場所は、都の南で京都と奈良の間にあり、川や巨椋池に近い土地でした。丘の上の山荘と、低い土地に広がる水面や田畑は、同じ地域の違う使われ方です。後に城が築かれたために知られる指月ですが、築城以前には貴族が邸宅を構える場所でもありました。[52・63]
俊綱の死後、山荘は皇室へ移り、後白河上皇の時代には伏見殿が造営されました。船津御所、伏見離宮とも呼ばれています。建物の主や呼び名が変わりながら、伏見は皇室と関係する土地として受け継がれました。[53]
鳥羽離宮と伏見殿は、別の場所にあった
同じころ、現在の竹田駅の西側一帯には鳥羽離宮が造営されていました。白河上皇が院政の拠点として整え、鳥羽上皇の時代へ引き継がれた大規模な御所です。南殿、北殿などの御所と寺院が置かれ、貴族が往来するための陸路や水路も整備されました。[52]
鳥羽離宮は、指月の伏見山荘や伏見殿と同じ建物ではありません。前者は桃山丘陵より西の低地、後者は宇治川に臨む丘陵側にありました。いずれも現在の伏見区に含まれますが、訪ねるには別の移動が必要です。城南宮や安楽寿院を目的にする旅と、大手筋から酒蔵街を歩く旅では、出発駅と経路を分けて考えられます。[52・48]
また、東側の醍醐・日野は醍醐寺や法界寺を中心に発展した地域です。「伏見の平安時代」を調べるとこれらも登場しますが、桃山の丘一帯に集まっていた施設ではありません。現在の区の境界と、当時の地域のまとまりは一致しません。[52・53・57]

伏見宮の御所には、村人が芸能を奉納した
南北朝時代の伏見殿は、北朝の光厳上皇、光明上皇らと関係する御所でした。光厳上皇から栄仁親王へ譲られたことが、伏見宮家の歴史につながります。御所の近くには、両上皇の母である藤原寧子が大光明寺を建立しました。[53]
皇族の住まいだけがあったのではありません。京都市が紹介する伏見宮貞成親王の日記『看聞御記』には、村人が伏見殿に集まり、華やかな作り物や仮装をして「松拍子」という芸能を奉納したことが記されています。御香宮などでも猿楽、連歌、御茶事が行われました。御所、神社、周辺の村人の間には、芸能や行事を通じた関わりがあったのです。[53]
文化庁の解説は、応永23年(1416)正月7日の条に、伏見庄の村人が松囃子を仕立てて宮邸へ来たことが記されていると紹介しています。下の複製刊本でも、その日の条に「郷中松拍子」の文字を確認できます。日記を書いた皇族の側から、村人が御所を訪れた行事が記録されているのです。[67・68]

中世の日記に記された松拍子に対し、現在の御香宮神幸祭では、各町の花傘が大手筋を通って神社へ向かい、神輿が氏子地域を巡ります。行事の形は時代によって異なりますが、現在も町内の人々が担い手となり、神社と街路が祭りの場になっています。[49・53]
秀吉の築城は、すでにあった土地利用を大きく変えた
中世の伏見は戦乱にも巻き込まれました。応仁の乱では稲荷社なども焼け、周辺の寺社や集落が被害を受けています。その後、16世紀末に秀吉が指月へ屋敷を構え、城へと拡張すると、伏見は多数の大名屋敷と町人地を持つ城下町へ変わりました。[53・1]
伏見城と城下町の記事では、この変化を屋敷から城への拡張、地震後の移転、家康の再建に分けて説明します。地域の見どころでは、現在の丘陵、駅前の旧市街、南の港と中書島の位置を案内しています。


