近代から現在へ。伏見の鉄道と酒造業、中書島の変化、干拓地と住宅地

明治以降の伏見は、江戸の港町がそのまま残った街ではありません。運河と鉄道が整備され、酒の販売先が広がり、軍の施設が置かれました。中書島では鉄道駅と旧遊郭の間に新しい市街地ができ、戦後には営業の制度と建物の使い方が変わります。南の巨椋池も干拓され、農地へ姿を変えました。
ここでは1868年の戦災後から、交通、産業、人々の仕事と暮らしの変化をたどります。現在の伏見区は、1931年の発足とその後の編入によって、旧伏見市だけでなく深草、向島、醍醐など異なる地域を含むようになりました。個々の変化が起きた場所を区別しながら見ていきます。[31・57]
明治の伏見では、運河と鉄道が同時に整えられた
1868年の鳥羽・伏見の戦いは、伏見の市街地や酒造業にも大きな被害を与えました。その後の復興期には、従来の水運を補う設備と、新しい陸上交通の両方が整えられます。1894年に鴨川運河が完成し、琵琶湖疏水と伏見がつながりました。[2・4・31]
翌1895年、墨染にインクラインが設けられました。水位差がある区間で船を傾斜軌道に載せて運ぶ設備です。船が通れる運河を掘るだけでなく、高低差を越える仕組みが必要だったのです。[31]
同じ1895年には、京都電気鉄道が京都駅と伏見京橋の間に開業しました。京都市の史跡案内によると、京橋では大坂方面の蒸気船と接続していました。鉄道ができた途端に水運がすべて不要になったのではなく、電車と船を乗り継ぐ交通もあったのです。[48]


三栖閘門は、堤防を築いても船を通すための施設だった
1929年に完成した三栖閘門は、インクラインとは別の仕組みです。宇治川の堤防工事によって伏見港との通航が妨げられたため、濠川と宇治川の間を船が行き来できるよう建設されました。二つのゲートの間に船を入れ、その区画の水位を行き先の川に合わせて上下させます。[32・36]
堤防を高くして洪水に備えることと、船の出入り口を残すことは、別々に解決しなければならない問題でした。三栖閘門は、その両方に対応する設備です。その後、陸上輸送の発達や川の水位の変化によって役割を終えました。いま酒蔵街のそばで運航される遊覧の十石舟は、かつての旅客・貨物輸送とは目的が異なります。[32・36]
酒造業は、鉄道と新しい市場によって生産を広げた
伏見は江戸時代から酒を造っていましたが、産業として順調に成長し続けたわけではありません。幕府の酒造制限で苦境に陥り、幕末の戦災も受けました。京都市の歴史解説は、1889年の東海道本線全通によって東京市場へ進出し、1908年に陸軍第16師団が置かれる頃には生産が増えたと説明しています。[4]
地下水を得られるという条件が同じでも、売る先まで運べるか、どこに需要があるかによって、造れる酒の量は変わります。近代の酒蔵街は、江戸期の建物がただ残った場所ではなく、輸送や販売の拡大に伴って設備と建物を更新した産業の街でもあります。1909年の酒蔵を利用する大倉記念館、1919年の旧本店を使う伏見夢百衆は、その時代の建物です。[7・38]
酒造家の増減と、四季醸造・融米造りなどの技術の違いは、伏見の酒造業と製法で掘り下げています。
近代の中書島では、貸座敷の営業地と働く人が制度で管理された
中書島の旧遊郭は、江戸期に東柳町・西柳町へ開かれました。明治以降は、京都府が定める営業や居住の規則の下に置かれます。瀧本哲哉の研究によると、1881年の京都府の貸座敷営業取締規則は、営業を認める区域の一つに中書島を指定しました。娼妓には営業の届出や、指定区域の外へ住まないことが求められました。[47]
「娼妓」は公娼制度の下で売春を認められた女性を指し、「芸妓」は宴席で歌舞音曲などの芸能によって客をもてなす職業です。京都では同じ区域に両者が混在する場合がありました。瀧本の研究では、府の統計が「遊廓」「貸座敷免許地」とする区域に、芸妓と娼妓の双方が含まれることを説明しています。[47・51]
瀧本が調べた京都府の規則には、娼妓の鑑札や定期検査、居住・外出の制限もありました。中書島を含む営業地では、営業の許可とともに、働く女性の身体と移動を管理する制度が設けられていました。[47]
当時の行政統計でも、芸妓と娼妓は別の項目に分けられていました。1935年を対象とする『京都府統計書』の第48表は芸妓など、第49表は遊廓の営業地、貸座敷、娼妓、遊客などを載せています。どちらも警察署の管内ごとの集計で、伏見署の数字をそのまま中書島の人数へ読み替えることはできません。制度に用いられた分類と、統計が数えた地域の範囲が、ここから確認できます。[69]

前借金と定額の課税は、働く人の負担になった
前借金は、将来の稼ぎから返すことを前提に先に受け取る金銭です。近代の芸妓・娼妓の労働を調べた研究は、こうした借金と営業の契約が、廃業や移動の自由を制約したことを指摘しています。芸妓と娼妓では契約の形も異なり、すべての女性が同じ条件で働いたわけではありません。[47・51]
税の負担にも特徴がありました。瀧本の研究によると、1900年の京都府の規則では、娼妓への賦金は市内・市外の区分による一人当たりの定額でした。また、1931年から適用された芸妓への雑種税は、営業地の等級に応じた一人当たりの定額でした。貸座敷の営業者は年間の売上に応じた等級で課税され、働く女性本人への課税とは基準が異なりました。客が少なくても一定の納付が必要になる仕組みです。研究は、前借金の返済に加えてこうした課税が働く人に重い負担を課したと論じています。[47]
街の売上から得られた収入は、営業者の経営、働く人の暮らし、借金の返済、税の納付へと配分されました。船や鉄道が多くの客を運ぶ一方で、働く人には稼ぎの少ない月にも残る負担がありました。研究が示すのは京都府の制度と経済構造で、個人の収入や生活の条件には違いがあります。
1910年の駅開業後、旧遊郭と駅の間に南新地ができた
京阪の中書島駅は1910年に開業しました。旧遊郭の南側には、それまで湿地や田畑がありました。昭和初期、駅と東柳町・西柳町の間の土地で、地面をかさ上げして敷地を分ける開発が進み、南新地が形成されます。駅から旧遊郭へ至る道沿いに、住宅や飲食店、酒を扱う店が並びました。[44・48]
江戸期の遊郭ができた時期と、駅前の商店街ができた時期には大きな隔たりがあります。南新地を旧遊郭とひとまとめにするより、東西柳町、駅へ続く南新地、線路の南側の土地を分ける方が、市街地の広がりを正確に理解できます。清山・神吉の研究は、地図や土地の分割をたどり、こうした成立の違いを明らかにしています。[44]
鉄道は客の往来にも関わりました。瀧本の研究は、1930年代の中書島などで、駅の乗車人員と遊客数の増加が対応することを示し、鉄道網の整備が営業規模の拡大に寄与したと論じています。江戸の船客を迎える町が、近代には鉄道で訪れる客も迎えたのです。[47]
南新地の新地湯は、この駅から旧花街へ続く通りにあります。京都市はその建築を昭和の繁華街を伝えるものとして紹介しています。また、蓬莱橋南詰には宇治川派流の一部を埋め立てた事業の碑があり、川に囲まれた土地が市街地へ変わった歴史をたどれます。[48]

1958年の売春防止法全面施行後も、中書島には別の営みが続いた
戦後の公娼制度の廃止と、1958年の売春防止法全面施行は、同じ出来事ではありません。公娼制度が廃された後にも、貸席などの名目で売春が行われる、いわゆる赤線の営業が続いた時期がありました。中書島の東柳町・西柳町が赤線でなくなる区切りは、1958年4月1日の全面施行です。[45・51]
しかし、この日をもって地域の建物や商いが一斉になくなったわけではありません。清山・神吉が住宅地図などを追った研究では、1957年に記録された貸席が1960年には名目上お茶屋となり、数も減少しています。その後、旅館や学生寮、集合住宅への転用、飲食・物販への変化が見られます。[45]
同研究は、1978年の地図で、旧お茶屋や南新地の長屋へ複数の小規模な飲食店が入る例も確認しています。建物を一軒の店で使う形から、いくつもの店に分けて使う形への変化です。2023年の地図まで追うと、住宅への建て替えや駐車場化も進んでいます。現在の飲食店を、すべて遊郭時代から同じ営業を続ける店と見ることはできません。[45]
この研究で聞き取りが行われたのは2023〜2025年、営業するスナックの現地調査は2024年です。掲載された店の構成や聞き取りは、その調査時点の記録です。現在の個別店舗の営業は、各店の案内で確認できます。中書島は、旧遊郭の記憶と、その後に生まれた住まい・飲食店・日常の用事が重なる地域です。[45]
巨椋池の干拓と軍用地の転用も、暮らす場所を変えた
伏見の南には、かつてコイ、フナ、モロコなどがすむ巨椋池がありました。河川改修によって宇治川との関係が変わると水質が悪化し、1933〜1941年の干拓事業で池は農地へ変わりました。農林水産省の紹介では、新たに634ヘクタールの農地が造られています。漁業の場が農業の場へ変わる、大きな土地利用の転換でした。[55・56]
深草周辺には陸軍第16師団の施設が置かれましたが、戦後には軍用地が大学や住宅地へ転用されました。伏見奉行所跡も、軍の駐屯、連合国軍の接収を経て、桃陵団地などへ変わった場所です。同じ土地に古い建物が残り続ける場合だけでなく、土地の用途を変えることで街が更新された歴史があります。[48・57]

伏見市が成立したのは1929年、京都市へ編入され伏見区ができたのは1931年です。現在の区には、旧港町、丘陵、農地、住宅地、寺院を中心とする地域が含まれています。大手筋や酒蔵街はその一部で、全域を一つの景観で代表させることはできません。[31・57]
いま歩く場合は、地域の見取りを紹介する記事から、中心街、丘陵、中書島、周辺地域を選べます。半日の散策案では、御香宮から三つの商店街、酒蔵街を経て中書島へ進む範囲で、時代の違う道や建物を見ていきます。
参考資料
- 京都市・近代産業への飛躍
- 伏見区90年 多様性の歴史
- 京都市・港湾商業都市の繁栄
- 京都市・京の名水
- 京都市・伏見区民史跡・名所めぐり
- 国土交通省淀川河川事務所・三栖閘門の歩み
- 国土交通省・三栖閘門 施設紹介
- 伏見観光協会・伏見夢百衆
- 京都市内博物館施設連絡協議会・月桂冠大倉記念館
- 瀧本哲哉(2020)戦間期における京都花街の経済史的考察
- 松田有紀子(2012)芸妓という労働の再定位
- 清山陽平・神吉紀世子(2021)中書島南新地にみる近代スプロール市街地空間の開発経過に因る特色
- 清山陽平・神吉紀世子(2026)中書島の小規模飲み屋群にみるスナックの空間性
- 豊かな暮らしを支える巨椋池干拓地
- 京都府レッドデータブック2015 巨椋池
- 京都府統計書 昭和10年第4編(1937年3月30日刊)
- 最近実測京都新地圖(1912年・深草アーカイブ015-001A)
- 向島渡し場の眺め(約1870〜1900年・Rijksmuseum)
- 勧進橋を渡る創業当時のチンチン電車(深草アーカイブ025-014)


