Sweetlore世界のお菓子図鑑(234)

ティラミス
Tiramisù
コーヒーを含む生地とマスカルポーネを重ねる
デザート / イタリア

ココアの褐色の下に、コーヒーを含んだビスケットと白い乳のクリームが隠れています。ティラミスは、サヴォイアルディとマスカルポーネを冷たい層へ組み立てるイタリアの菓子です。「私を元気づけて」という名を持ち、コーヒーの苦味、卵黄と砂糖の甘さ、乳の穏やかさを一皿へ重ねます。よく似た名前が複数の町の菓子に残るため、その歴史には、名前の歴史と、配合や作り方の歴史という二つの筋があります。
家庭の滋養食と、町の口承
トレヴィーゾには、卵黄と砂糖を泡立てた家庭のスバトゥディンから、現在のティラミスへ育ったという語りがあります。コーヒーや酒、ビスケット、リコッタなどを家族が足し、元気を付ける甘味を作ったというものです。
もう一つの口承では、娼館の女主人が客に滋養を付けようと甘味を出し、「元気にしてあげる」と呼びかけたことが命名へ結び付きます。トレヴィーゾの発祥を擁護する普及団体、アッカデミア・デル・ティラミスが伝える話で、十九世紀の具体的な店の献立による起源記録ではなく、町に伝わる口承です。卵と糖を滋養に結び付ける家庭の記憶と、町の夜の営みへ結び付ける物語が、同じ名に託されています。
三つの土地、異なる層
トレヴィーゾのレストラン、レ・ベッケリエでは、旧経営者アルバ・カンペオルと菓子職人ロベルト・リングアノットの試作を経て、一九七二年にメニューへ載せたと伝えます。一九八一年には料理著述家ジュゼッペ・マッフィオーリが『ヴィン・ヴェネト』誌で紹介し、店は二〇一〇年十月十五日に自店のルセット(材料の配合と作り方)を寄託しました。
同じ町には一九五六年の「フォーゲル・インペリアル・カップ」、一九六三年の「マスカルポーネ・カップ」という先行デザートも知られています。コーヒーやマスカルポーネを重ねる杯菓子から、六材料を重ねた現在の一台へ、町の店ごとに異なる姿が伝わります。
隣のフリウリ=ヴェネツィア・ジュリアでは、ピエリスの料理人マリオ・コゾロと、トルメッツォのホテル・ローマに別の系譜が伝わります。モンファルコーネの文化団体とエコミュージアムが保存する沿革では、コゾロは一九三五年に王室ヨットの厨房で杯菓子を作り、一九三九年に家族の店アル・ヴェットゥリーノで「コッパ・ヴェットゥリーノ」として供しました。チョコレートのムース、酒を含むスポンジ、ザバイオーネのムースを重ねるカップで、コーヒーとマスカルポーネの層とは中身が違います。
一九四七年、常連のブルーノ・チマドーリの冗談をきっかけに「ティリメ・ス」と呼び直したという話もあり、一九五〇年の店内写真にはその宣伝文句が写るとされます。王室での出来事や命名のやり取りは、この地域に伝わる沿革の一部です。
一方、ホテル・ローマでノルマ・ピエッリらが作ったとされる型は、マスカルポーネ、コーヒーを含むサヴォイアルディ、卵、砂糖、泡立てた卵白を使い、四角く切って供するもの。地域の資料では一九五二年にさかのぼります。研究者クララ、ジジ・パドヴァーニ夫妻は、二〇二〇年のインタビューで、同ホテルの一九五九年の領収書を発見したと述べています。その後、一九八一年の雑誌、一九八三年の料理書へと、菓子は印刷物でも広まりました。
酒を含む層から、コーヒーと乳の層へ
サヴォイアルディを液体で柔らかくし、クリームと重ねる組立てには、先行する菓子がありました。アルトゥージのドルチェ・トリノは、サヴォイアルディをロゾリオや赤いアルケルメスへ浸し、バター、卵黄、糖、乳で溶かしたチョコレートのクリームを三段に重ねるもの。四角く整えて一晩置き、翌日に温めた刃で表面をならします。ビスケットが液体を含み、クリームと落ち着く時間を取る構造です。
トルメッツォの家族の来歴では、ノルマ・ピエッリはこの菓子を基に、バターをマスカルポーネへ、酒をコーヒーへ替えたと伝えられます。チョコレートを練り込むクリームから、白い乳のクリームと表面のココアへ。似た積み方の中で、脂肪の由来と香りの位置が変わります。
ズッパ・イングレーゼにも、酒に浸したサヴォイアルディとクリームの層があります。アルトゥージの型では、乳、卵黄、糖、でんぷんなどを炊いたクリームを使い、果実のジャムも型へ重ねます。対してシャルロット・リュスは、サヴォイアルディを底と周囲へ隙間なく並べ、その器をバヴァロワで満たします。菓子を縦の壁にするシャルロット、酒と炊いたクリームを重ねるズッパ、コーヒーとマスカルポーネを重ねるティラミス。軽い焼き生地へ水分とクリームを合わせる仕事が、それぞれ異なる輪郭と香りを作ります。
六材料で作る、トレヴィーゾの円形
レ・ベッケリエのルセットは、卵黄、砂糖、マスカルポーネ、サヴォイアルディ、コーヒー、ココアの六材料です。卵白、生クリーム、酒を加えず、卵黄と砂糖を泡立ててマスカルポーネを合わせ、柔らかなクリームにします。
コーヒーは冷ましておき、ビスケットを浸して並べます。液を吸ったサヴォイアルディは柔らかくなりますが、浸しすぎれば層を支えにくくなります。その上へクリームを広げ、同じ重なりをもう一度作り、ココアをふるって冷蔵します。店では円形に作ってくさび形へ切り分け、ココアで店の印を付けて供していたと伝わります。ホテル・ローマの四角い一切れと比べると、材料だけでなく、切り分け方にも違いが残ります。
泡とビスケットを変える職人の工夫
卵白を加えて軽さを作る現代の型もあります。ブレーシャの乳製品メーカーの公開されたルセットでは、卵黄五個に卵白二個を合わせます。熱い糖液を卵白へ注いで泡立て、卵黄にも別に同じ操作を施します。マスカルポーネは卵黄側へ電動泡立て器で混ぜ、卵白の泡は最後にへらで折り込みます。泡を作る時は強く動かし、最後は抱き込んだ空気を残すように合わせる、二つの混ぜ方です。
料理人アントニーノ・カンナヴァッチュオーロは、サヴォイアルディから米粉で焼く型を作ります。卵白と卵黄をそれぞれ砂糖で泡立て、合わせてから米粉を入れて絞り焼きし、コーヒーとラム酒またはマルサラ酒を含ませます。大皿にも一人用容器にも仕立てられ、ビスケットの粉や酒の選択までが、作り手の解釈の範囲になっています。
二つの地域に登録された伝統
二〇一七年、ティラミスはフリウリ=ヴェネツィア・ジュリアの伝統的農食品の一覧へ加わりました。トルメッツォのマスカルポーネの一切れと、ピエリスのコッパ・ヴェットゥリーノという二型です。二〇二四年には「トレヴィーゾのティラミス」もヴェネトの一覧へ入りました。
こうした伝統産品の登録は、地域で受け継がれた製法や食文化を記録する仕組みです。異なる地域の名と作り方が、それぞれの継承の下に並ぶことになりました。家庭の卵黄菓子、店で重ねる一台、酒の香る杯菓子を巡る来歴は、地域の観光や菓子作りを支える記憶にもなっています。
日本で替わった乳と、外食の一皿
日本では、飲食店の普及と製菓材料の開発が並んで進みました。デニーズは一九八六年に「ティラミス風」の初代を提供し、一九九〇年にはマスカルポーネを使う味へ改訂しています。
不二製油が一九八八年に発売した「マスカポーネ」は、マスカルポーネに代わる植物性の乳酸発酵素材です。保存、作業のしやすさ、品質、価格を意識した開発で、雑誌での紹介も普及を後押ししたと同社は伝えます。イタリアの菓子が日本で広がる過程には、ルセットの受容とともに、手に入る乳素材や外食・製菓の仕組みに合わせた作り替えがありました。
用語解説
- マスカルポーネ
- クリームを主原料とする、なめらかで穏やかな風味のイタリアの乳製品。
- サヴォイアルディ
- 卵を泡立てて作る細長い軽いビスケット。ティラミスではコーヒーを含む層になる。
- ザバイオーネ
- 卵黄と砂糖、酒などを泡立てて作るクリーム。コッパ・ヴェットゥリーノではムースの層に使う。
- マルサラ酒
- イタリア・シチリアの酒精強化ワイン。
- アルバ・カンペオル
- レ・ベッケリエの旧経営者。同店がティラミスの開発者として記録する人物。
- ロベルト・リングアノット
- レ・ベッケリエでアルバと試作した菓子職人。
- ジュゼッペ・マッフィオーリ
- 料理著述家。同店の沿革が1981年の雑誌紹介者として挙げる。
- マリオ・コゾロ
- ピエリスの店でコッパ・ヴェットゥリーノを作った料理人。
- ノルマ・ピエッリ
- トルメッツォのホテル・ローマでマスカルポーネの型を作ったと地域資料が伝える料理人。
- アントニーノ・カンナヴァッチュオーロ
- 米粉のサヴォイアルディを使うティラミスのルセットを公開するイタリアの料理人。
- クララ、ジジ・パドヴァーニ
- 資料と作り手への聞き取りからティラミスの来歴を研究した著述家夫妻。
- ブルーノ・チマドーリ
- コゾロの菓子の命名譚に登場する常連客。
- ペッレグリーノ・アルトゥージ
- 近代イタリアの家庭料理書『La scienza in cucina e l’arte di mangiar bene』の著者。
- ロゾリオ/アルケルメス
- 菓子の浸し液などに使う酒。後者は赤い色と香りを持つ。
- シャルロット・リュス
- 軽いビスケットなどで底と周囲を囲み、冷やすクリームを詰める菓子。
- 伝統的農食品(PAT)
- イタリアで地域の伝統的な食品と製法を一覧に記録する制度。
- エコミュージアム
- 地域の自然や暮らし、記憶を住民とともに記録・継承する博物館活動。
- マスカポーネ
- 不二製油が開発したチーズ風味の植物性発酵素材の商品名。マスカルポーネとは区別する。







